1. FERIA終了
各国文化を紹介する大学イベント
「FERIA2006」が無事終わった。
後片付けをしてから、
お肉を食べにレストランへ行き、仲間と乾杯した。
疲れていたけど、とても気持ちの良い夜だった。
翌日は土曜日のクラスのために6時に起き、
授業をして、それから昼食後、デンゲに罹った
友人のお見舞いに行った。
思ったよりも元気そうで、
作った丼と味噌汁を4杯ずつおかわりした。
何かのCMにできそうなほど、
気持ちの良い食べっぷりだった。
男兄弟のいない私には、
久しぶりにちょっと新鮮だった。
2. ニカラグアに友人が来た
翌日の日曜日はホンジュラスで暮らす隊員で、
駒ヶ根訓練所で同じ語学クラスだった友人が
ニカラグアへ来るというので
空港まで迎えに行ったら、
着いてしばらくしてから国際電話がかかってきて、
朝の飛行機で行けない、と言った。
ニューヨーク発エルサルバドル経由マナグア行きの
飛行機がNYから飛ばなくなったらしい。
そのニュースはちょっとショックだったので、
思わず叫んだけど、彼女はそれから10時間、
エルサルバドルの空港で足止めを食らい、
その日1日をずーっと空港で過ごしたそうだ。
わたしは疲れきっていたのですぐに家に帰った。
また夜迎えに来ることを考えて、
FERIAで身銭を使い果たしてしまった
わたしは金銭的に余裕がなかったので
空港から市内循環バスで帰ることにした。
家に帰ると、大家さんの妹夫婦が遊びに来ていた。
ゆっくり話をしたいところだったけど、
随分と疲れていたので挨拶を交わした後、
すぐ部屋へ行き、
宮部みゆきさんの「東京下町殺人暮色」を
読んだり、眠ったりした。
夕方5時まえ、友人からの電話で目が覚め、
コーヒーを飲みに行こう、ということになった。
でも、わたしは夜空港へ友人を迎えに行く約束がある
と言うと、じゃあ空港で飲みましょう、ということになり、
雨が降りしきる中、
タクシーでその日2度目の空港へ向かった。
ホンジュラス隊員の友人とは1年以上ぶりの再会だった。
3人で彼女のホテルへ向かい、
友人は翌日の仕事があるから、と自宅へ帰り、
2人でマナグアの六本木へ向かった。
他の同期隊員も集まって、
みんなで12時まで飲んで、しゃべった。
3. 選挙直前
その翌日から、月・火・水とハードに仕事を
進めていたら、風邪をひいてしまった。
巷で流行っていた風邪だった。
風邪の症状が出てきた水曜日は
選挙の候補者が演説できる最後の日とあって、
選挙活動やら、その応援で道が大渋滞し、
結局、夜の日本語クラスの学生は
1人しか来なかった。
10分ほど簡単に授業をして、
彼女のお母さんが車で送ってくれる
というのでその車を待っていると、
FSLNというサンディニスタ政党の応援車が
バンバン通った。
赤と黒の旗は大漁旗のように車の窓から翻り、
大音量でかかる応援ソング、
勝利を確信した叫び声、
爆竹と花火の音で
私の頭はぼんやりした。
彼女のお母さんではなく、おじさんが大学の
すぐ近くにいると聞いていたが、
結局30分以上あとで、現れた。
風邪はひどくなる一方だったが、
「死者の日」で祭日の木曜日と、
授業のない金曜日は
友人をレオンという観光地に案内する
約束をしていた。
「死者の日」は日本のお盆のような習慣で、
バスが着いたレオンの市場には
様々な種類の花がたくさん売られていた。
4. ニカラグア世界遺産「レオン・ビエッホ」
金曜日には初めて「レオン・ビエッホ」に行った。
ここはニカラグアにある世界遺産だ。
遺跡がある範囲は小さく、80%は
まだ地中に埋もれているということだった。
1854年にスペイン人によって建設された街は、
モモトンボ火山の噴火と地震で壊滅した。
今、見られるのは教会や銀行の建築基盤だけだ。
でも、公園の雰囲気はとても平和で、穏やかで、
安らかだった。
コスタリカで訪れたカルタゴ渓谷の遺跡の
雰囲気にとてもよく似ていた。
それから、ガイドが最後に案内してくれた
展望場所からは雄大なモモトンボ火山が正面に、
そして来ニカ当初に登ったオヨ火山が左手に見えて、
素晴らしい眺めだった。
それからバスに乗ってマナグアに戻り、
大使館に用事があったので、
友人とさようならをした。
この日から選挙の夜までアルコール類の販売・飲酒は
禁止。
もともと飲まないから、まったく問題なかった。
5. 風邪と読書と
大使館の用事をしているあたりから、
体調は絶不調になってきた。
なのに、家に帰ってから、読みかけの本を、
鼻をかみかみ、読みきってしまった。
その翌日、選挙前日だというのに
土曜日クラスはあった。
授業を終えて帰ってから、
また宮部みゆきさんの、今度は
「ステップファザー・ステップ」を読んで、
それからお昼寝をした。
夕方、インターネットカフェへ行ったが、
なぜかインターネットも電話もつながらず、
諦めて家に帰り、おいしいエンチラーダを食べてから、
本の続きを読んで、寝た。
6. 大統領選挙当日
日曜日はニカラグア大統領選挙当日。
朝の6時からママとパパは準備して、
7時に家を出、投票を終えて帰ってきたのは
10時をとおに過ぎた頃だった。
2人とも右手の親指の先っちょ全体がこげ茶に
染まっていたので理由を聞くと、
2度投票されるのを防ぐ目的でそうされる、
ということだった。
1週間から1ヶ月は落ちないらしい。
テレビで投票の様子を見ていると、
夕方6時まで投票できる、ということだったのに、
信じられないことに、
列に並んでいた最後の方の人は、
投票しないまま、打ち切られたらしい。
また、投票所は大体、地域の学校だったのだが、
その部屋は一概に薄暗く、汚なかった。
列は延々として進まず、身元証明書を示して、
本人かどうかを確認し、投票してから、
親指にはじめは透明の粘着液を、それから
マジックのようなインクでこげ茶に塗るのだった。
この日はJICAから外出しないよう勧告が出ていたし、
FICAの準備以降の疲れでくたびれきっていたので、
ベッドで丸一日、
村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を
読んでは寝、読んでは寝、を繰り返した。
高校生の頃、「ノルウェイの森」を
図書館で借りて、読んだことがあるが、
回りくどすぎる、と途中で投げてしまった。
あれ以来、村上春樹には
手を伸ばしたことがなかったのだが、
この間一緒に空港へ行った友人が
「春樹とばななの系統は同じだ」と言った
言葉が引っかかって、また読む気になったのだ。
読みながら、ある知り合いを思い出した。
好きな作家は村上春樹だと言った彼は
独特の雰囲気がある人だった。
初めて読んだ、春樹の本。
ピンと折り目の見える品の良い不揃いの言葉。
上下巻ある、長い長い詩。
腐臭のする崩れかけたプラスチックのサイコロの中に澄んで光る小さな心臓。
「本当に何かをやるというのは惨めに混乱して骨の折れることだよ。
意味のない部分が多すぎるしね。」(ダンス・ダンス・ダンス(下)P313より一部抜粋)
7.選挙速報とマナグアの街・人々の様子
もう寝ていたのだけれど、
夜中12時半に最初の速報が出たらしいことに
なぜか分からないけど気づいた。
開票率は40%くらいで、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が40%だった。
サンディニスタ政権になるな、と思いつつ、眠った。
社会のシステム が大きく変わっていく。
翌朝のCNNで、最初のニュースにニカラグアの選挙速報が
流れているのにはびっくりした。
選挙翌日のこの日は大学が休みだったので、
ゆっくり起きて、FERIAの報告書を書いていると、
ママがスーパーへ行くというのでついて行った。
あんなマナグアの街を見たのは初めてだった。
交差点の物売りも、車も、だれもいなかった。
日本の正月よりも閑散としていた。
スーパーだけが辛うじて空いていた。
がらがらのスーパーで、
果物をセールしているというので、
パパイヤとスイカとピターヤと
パパの好物のりんごを買い込み、車に積んだ。
それから、昼までかかって、報告書を書き上げた。
昼、近所に住む友人に退屈していると電話したら、
遊びにおいで、と言ってくれたので、
紅茶とクッキーを手土産に行ったら、
彼は豚の角煮とごはんをご馳走してくれた。
トロトロの角煮をごはんに乗っけて、食べた。
インターネットを使わせてもらった後、
新聞を買いにUCA前まで歩いて行った。
勝利を確信したたくさんのサンディニスタ応援者が
軽トラックやら自家用車やらでテーマソング
"Solo queremos~" を大音量で流しながら、
赤と黒の旗を大量旗のように翻しながら、
走っていた。
サンディニスタは貧しい人たちに支持されている
政党らしく、今回得票率が40%を超えたのも、
それだけ暮らしに困っている人たちが多い、と
いうことなのだろう。
サンディニスタ政権トップのダニエル・オルテガは
1980年代に5年間に渡り大統領だった人なのだが、
その頃の政策は、家族や友人達が言うところによると、
とても良くなかったそうだ。
スーパーへ買い物に行くためにも、カードが必要で、
砂糖やトイレットペーパーや石鹸など、
欲しいものに印をつけ、それをスーパーの人に
提示して、購入していたらしい。
もちろん、少しの買い物にも長い長い列に
並ばなければならなかった。
なのにもう一度その人が選ばれたのは、
その列に並ぶのなんて訳ないことで
それよりも生活を少しでも改善して欲しい、
という人たちの懇願なのだろう。
わたしはむしろ支持政党の政策が、着実に前進、
変わってきたからだと信じたい。
テレビ番組でちらっと見た感じでは、
候補者の中で一番オーラのある人だった。
新聞を買ってから、友人とマルガリータへ
お茶しに行きたかったけど、
なんだか町の雰囲気が全体的に危ない感じだったので、
渋々諦めて、
途中でピコとドーナッツを買って、帰った。
8. 通常業務に戻れない
その翌日の火曜日からは残念なことに
町中が通常業務に戻ってしまった。
わたしも大学へ行ったのだけど、
日・月の休みで、死んだように眠ったためか、
すこぶる頭が良く働いてくれた。
授業準備の合間に、来年度のスケジュールと
来年の日本文化教室の予定を作成し、
それからFERIAの資料をまとめた。
夕方5時から授業をしていると、
またFSLNの勝利の爆竹が鳴り始め、
生徒やそのお母さん達から
「今日も危ないから欠席するわ。
道が閉鎖されているのよ」
という電話を受け、
「今日も6:50からのクラスはないかな」
なんて思っていたら、
7人も来てくれた。
*この日はまさにこの文型
「Vて形+くれます」を教えた。
9. クリスマスの光に満ちて
夜8時半、生徒の車で家へ送ってもらうと、
生徒が「先生のうち、とってもきれい」
と言うのでそちらを見ると、
クリスマスのイルミネーションで
家が包まれていた。
穏やかで、暖かな光がキラキラピカピカ光って、
消えて、また燈った。
あまりの美しさに思わず、警備員のラモンに
「ねぇ、きれいだねぇ」と話しかけた。
イルミネーションは家の中までキラキラピカピカ。
そして、いつもは洗濯された服が下げられている
わたしの部屋のドアにもトナカイのリースが
飾られていた。
政治や選挙や左や右や、危険や、こいつは泥棒だ、
などのきつい言葉に包囲されて、
少しささくれ立っていた私の心に
温かい灯りが灯り、
少し早いクリスマスプレゼントを
もらったような気持ちになった。
10. ロータリーでの勝利宣言
そして翌日の水曜日。
朝から哀しい予感を抱きながら
大学へ向かった。
着くと、夜8時から、
家のすぐ近所にあるメトロセントロという
デパートのようなところの前にあるロータリーで、
ダニエル・オルテガさんが勝利宣言をするという。
一国の大統領になろうという人が、
一番車の通りの多いロータリーで演説するというのも
常識的に不思議な話だとは思うが、
これで今夜の授業は確実になくなったな、と思った。
それでも、5時半に学生が2人やってきて、
一緒に「WE ARE THE WORLD」のDVDを見た。
あの曲はマイケル・ジャクソンが1晩で詩を書いたらしい。
大物歌手が揃って、叫んでいた。
このマナグアの不穏な空気の中で、
わたしたちはその曲を聞いた。
6時過ぎに家に帰ろうとしていると、
どこもかしこもひどすぎる大渋滞だった。
ラッシュ時間に大通りを閉鎖され、
演説を聞きに行こうと向かっている車は張り叫び、
バスは大きな音でクラクションを鳴らし続け、
パパとわたしは庭先で椅子を並べて、
その様子を見続けた。
夜の7時45分にテレビをつけると、
今まさにオルテガが演説をしようと
しているところだった。
2人が乗った車の周りは赤と黒の旗と、
人の海だった。
どこまでも、どこまでも、人が続いていた。
オルテガさんの演説は1時間に及んだ。
「神が~、神が~」というのに飽き飽きして、
演説を聞きながら2度眠った。
テレビを通して聞いている声と、
外から聞こえる生の声のエコーの両方を
聞きながら。
バンバン花火が上がった。
正当な雇用が数多く生み出されますように。
今日の午後、パパのお兄様がベネズエラから
いらっしゃった。
お話を聞くのが楽しみだ。